エッセイ1 私にとって「生きる」とは(来樹杏果)

home  PROFILE DIARY NOVEL  STUDY  Xcodeとswift  LINK

 

幼い頃の一番古い記憶は、頭の中でお話を考えていることでした。

小学1年生のときの「将来何になりたいか」と聞かれてお話を作る人になりたいと漠然と思った私は、自分が書く以外のことに対する興味はほとんどありませんでした。

人の作品にも興味なく、遊びは基本お話を考えることばかり。

小さな人形で遊んだり、着せ替え人形やままごとをしたり。

旅行に行っても別段楽しむわけでもなかった私は、子供としてちょっとおかしかったんじゃないかな。

 

子供の頃、つらいことがあって、そのとき読んだストーリーに心動かされ、私ははっきりとお話を作る人間になりたいと決意しました。

その日から書き手となるための勉強をはじめました。

自分にとって、書くために役に立たないと思われることをするのは無駄な時間と考え始めました。

音楽や映画や小説、漫画などの芸術に触れるのは能力を高めるとどこかで聞いた私は、歴史者やノンフィクションやエッセイなどは役に立たないという偏った考えで作品を選び見聞きしてきました。

友達との会話は自分が書く話に友達との会話を書けるから役に立ちそうと考え、友達と会うことは自分に許していましたが、恋人になればハッピーエンドになる話ばかりを考えていた私は、片思いの恋は必要でも、恋人と過ごす時間は無駄だと考えるようになりました。

つらいことが起きると、「これはお話に書こう」と考えるようになり、そう思うことでつらさを乗り切っていました。

私にとって「生きる」とはお話を作るために存在し、それ以外のものは不要だと考えるように。

 

その頃は、不要だと思えたことでも、楽しいことならいい経験として役に立つ、という少しばかり自分にとって都合の良い解釈をして、いろいろ遊ぶこともしましたけれど、歪んだ思考だということに気付き始めたのは、旦那様と付き合い始めてからですかね。

なんか、いろんなことを旦那様と議論するように話し合って、違う人の思考というものを理解したのかもしれません。

ここ最近になっていろんなことを勉強しようと思うようになったのは、今までの考えじゃなくなったからですね。

いろんなことに興味が出てきました。

子供の頃もっといろいろやっておけば良かったな、と思います。

――でも、それは「その経験を小説に書けるから」であって、どうしても、歪んだ考えを矯正できないのです。

 

一人で遊ぶ「トランプゲーム」や「マインスイーパー」など。どんなにそのときが楽しくても「無駄な時間を過ごしてしまった」と後悔します。

楽しければ、無駄じゃないですよね。

楽しくなかったのなら、それがどういうものか分かるし、楽しくなかったって気付きができたわけで、それもきっと無駄なんかじゃない。

眠ることは健康のために大切だと分かっていながら眠る時間がもったいなくて寝ないとか、私ってばかじゃないですかね。

何もしないと健康じゃなくなって、風邪引いたりするので、そうすると作品作りに邪魔が入るから、健康になろうとか考えてしまう。

「生きる」って、そういうことじゃないと思うんですよ。

お話を考える趣味のない人にとって、「生きる」って、楽しい時間を過ごしたり、何かに癒やされたり、誰かと仲良くなったり、そういう時間が大切だと思っていると思うんですよ。

スポーツをする人は、スポーツがうまくなることが目標だったり、会社で頑張っている人は、会社で成功することが目標だったりするわけですよね。

世の中のお母さんたちは、子供が元気でいられるために料理をしたり、家を掃除することが大切だったりするわけだし。

 

そんなことをちょっと考えてみました〜。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です